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若松今昔ものがたり -第2話-

「ハイカラ」日本で三番目の火災報知機 上水道は九州で二番目

日本の石炭の半分

旧古河鉱業の建物(ルネッサンス風の赤煉瓦造り、南海岸通り)

大正二(一九一三)年、全国の石炭の採炭高は二千百三十万トンであった。そのうち筑豊五郡が千百五十万トンを占めており、その八割が若松から積み出されていた。日本の石炭の半分を若松が取り扱っていた計算になる。いわば日本一の石炭積み出しの港町であった。
ところで、石炭の町・若松は非常に火事が多かった。私の家の近くでも年に何回か火事があった。カンカンカンと半鐘の音で夜中に起こされ、寝間着のままウロウロし、ガタガタ震えていた思い出がある。火事が多かったのは、建物が立て込んでいたことと石炭を燃やす七厘の火の不始末のためだったのであろう。芳野病院も二回類燃やして焼け出された。
火事が多かっただけに、若松には日本で三番目に町に火災報知機が取りつけられた。昭和三(一九二八)年のことだ。火事を見つけて報知機のボタンを押すと消防署に通じるシステム。赤く塗った柱に報知機が取りつけられ、三十五ヵ所に立てられた。現在のように電話が普及していなかった時代なので、これが当時最新の文明の利器であった。

井上馨氏のひと声

火事の跡

また若松は上水道も全国に先駆けて敷設された。明治四十二(一九〇九)年に着工し、同四十五年に完工。九州では長崎市に次ぎ二番目であった。しかもこのことはちょっとした偶然から実現したのである。
それは八幡製鉄所の三代目長官中村雄次郎氏のとき、溶鉱炉の火入れ式に当時大蔵省の幹部だった井上馨氏が八幡に来られたことにはじまる。八幡製鉄所で使用している工業用水が豊富だという話が出て、井上氏が「そんなに充分に水があるのなら、若松にも分けてあげて上水道をつくったらどうか。政府からも援助しよう。

現在の水道局

八幡製鉄所も若松にはお世話になっているし、水不足で衛生状態が悪くてコレラでも発生したら大変なことになるでしょう」といわれたのである。このつるのひと声でまだ八幡にも小倉にもなかった上水道が若松に引かれることになった。当時は各家に井戸があったので初め上水道を引く必要はないと若松町議会が反対したが結局成立した。

年間予算上回る額

完成祝賀会

また総工費六十六万円のうち、若松は二十万円工面するようにいわれ町長がびっくりした。なにせ年間予算が総額十二万円の時代だ。"二十万円"の巨大な金額にたじろいだのも無理もない。町は何とか町債を発行して賄ったという。
このように井上馨氏のおかげで若松に早くから上水道が引かれた。それが後に機帆船の海上生活者のために岸壁に水道が引かれ、衛生上大いに貢献したのである。上水道や火災報知器で代表されるように、若松は何でも全国に先駆けて取り入れるハイカラな街だった。

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