若松今昔ものがたり -第3話-
「政友会と民政党」市民二分しての対立 日本郵船事件に発展
二人の代議士
明治から大正時代に入ると、農民票をバックにした政友会に対抗して、中小企業を中心とした支持を受けて民政党が台頭してきていた。昭和四(一九二九)年の全国地方議員選挙の得票総数は、当時の新聞記事によると民政党十一万千二百票、政友会十五万三千七百票と伯仲している。
そのころ若松からは政友会が石崎敏行、民政党が吉田磯吉を推して代議士に当選させていた。若松のような小さな市から二人の代議士が出るのはまれであった。当然若松の町は政友会と民政党が相対立してすべてを競いあっていた。
例えば、明治町に民政党派と政友会派の商店があり、民政党の者は民政党派の店で買い物をし、政友会派の者は政友会派の店で買い物をした。私も家が民政党派だったのですぐ近くに理髪店があるのに政友会派ということで、遠くの民政党派の理髪店まで行かされた。若松の住民ははっきり政友会派と民政党派に分かれていたのだ。
「テント村」出現
当時警察署は内務省の管轄であったが「内務大臣が他の党派にかわると警察署長はすべて更迭されていた」という話を聞いたこともある。
父・芳野三郎は、大正十一(一九二二)年から六期二十四年間、若松の市議会議員を務め副議長、議長を経験した。昔の選挙事務所は自宅にあったので、当時の選挙のことはよく覚えている。
そのころ若松の選挙風景は一風変わっていた。立候補者は大きな立看板を作り、街角や商店の前などに所かまわず立てかけた。開票場は市の公会堂で、その前に各候補がテントを張った。いわゆる「テント村」だ。公会堂の二階の窓から各候補のテントまではロープが張ってあり一票入るごとに鈴をくくりつけた荷札がロープを伝ってその陣営のテントに降りてきた。
十票たまると腰に鈴をつけた運動員が候補者の名前を書いたのぼりをたてた自転車にまたがって選挙事務所に走った。事務所につくと「十票」と叫び、事務所の者は樽酒を一杯グイと飲みほして万歳をするのである。
父の頭に領収印
昭和九(一九三四)年市議会議員選挙で父が当選したとき、三百五十八票で最高点であった。当時は二百人から三百人の支持があれば市議会議員になれたのである。
父が市議会議長をしていた時のエピソードを今でも覚えている。予算編成で睡眠不足のまま議長席につき、こともあろうに居眠りをしてしまった。議員が発言を求めてきた時、うっかり後ろから手を上げた者を指名したため、さあ大変。「議長横暴」と議場は騒然となった。しかし、当の本人は睡魔に勝てずまたウトウト。
その時である。頭を垂れて眠っている父のハゲ頭に料理屋の大きな領収印が押されているではないか。議員全員、一転して大笑い。前日、父が料理屋に行った時に例によって寝てしまいだれかがいたずらしたらしい。ところがこの大笑いのお陰で、議場の混乱は丸く収まったという。何とものどかな議会風景である。
しかし、のどかな議会風景とは裏腹に、政友会と民政党の政争はすさまじいものであった。世にいう日本郵船事件が勃発、若松の名は天下にとどろいたのである。

